チャンドラーとシシー
遠い昔、欧米のミステリー、特にハードボイルド小説に傾倒した時期があった。
レイモンド・チャンドラー、デック・フランシス、ギャビン・ライアルなどをよく読んだ。
特にチャンドラーは、短編以外は殆ど読みお気に入りだった。
NHKのBShiで「レイモンド・チャンドラー」の特集番組(90分)をやることを知ったが、我が家の旧式TVでは見れない。
そこで最新TVを購入したばかりの会社の友人に頼み、番組をDVD-RAMに焼いてもらって先日観た。
番組は「テイクファイブ」の曲に乗り始まった。
チャンドラーが結婚したのは、セシール・パスカル・シシー。
ヤグルマギクの青碧の瞳(cornflower-blue-eyes)を持った美しい女性だった。
彼女は上品な雰囲気を持ちながら、若いころはヌードモデルなどをする奔放な面を持ち合わせてた。
チャンドラーは25歳の時に彼女に出会い一目ぼれするが、彼女はその時2度目の結婚で人妻だった。
1924年となった10年後の35歳でチャンドラーは、ようやく彼女と結婚することが出来たが、彼女は8歳年上だった。
しかし彼女は年齢をサバ読んでおり、本当は18歳年上だった。
彼女のその時の本当の年齢は53歳、でもとても美しくその年には見えなかった。
(怖い~。皆さんの伴侶の年齢は絶対正しいという証拠がありますか?)
チャンドラーは結婚後サラリーマンを続け、7年後には石油会社の副社長にまでなった。
しかし、シシーの本当の年齢を知った彼は、子供が出来ない理由も悟り、飲酒と不倫に走った。
そして飲酒(アルコール依存症)が原因で、仕事を追われた。
シシーは不倫を怒らなかった。彼を待てるほど彼女は精神的に成熟していた。
仕事を失った彼は、短編ミステリー雑誌「ブラックマスク」を読み「このくらいだったら自分の方が上手に書ける」と小説を書くことを決意。
1933年「脅迫者は撃たない」を発表。イギリスのカレッジで学んだ「奉伺・名誉・自己犠牲」の精神を主人公に持たせた。
1936年一人称の長編小説「大いなる眠り」でフィリップ・マーロウ誕生。
1945年 サンディエゴ ラホヤに永住。海の見える家だった。
1953年 「長いお別れ」発表。米国・英国で大ベストセラーとなる。
この小説でリンダ・ローリング登場。
この年にシシーと二人でイギリスに旅に出る。
帰国後、シシーは体調を崩す。
1954年12月 シシー死去。30年と10ヶ月と4日の結婚生活であった。二人は一度も喧嘩をしなかった。
チャンドラー自殺を試みる。ラホヤの家売却。
1956年 「プレイバック」発表。
1959年 「プードル・スプリング物語」 マーロウは、ようやくリンダ・ローリングと結婚。
1959年 3月 26日 レイモンド・チャンドラー 死去。享年70歳。
彼の葬儀には、17名しか参加しなかった。また生前彼はシシーと一緒に埋葬されることを望んでいたが、それは叶わなかった。
二人だけのとき、シシーは生前チャンドラーのことを「ガリビオス(GALLIBEOTH)」という愛称で呼んでいた。
番組は以上。あっという間の90分であった。知らなかったエピソードが一杯有った。
シシーのお陰で、フィリップ・マーロウと数々の名ストーリーが出来たといっても過言ではないなぁ。
チャンドラーはマザコンだった!!という意見も解らなく有りませんが、それだけで私は彼たち夫婦の生涯の説明をしたくはありません!!
チャンドラーは途中色々あったかもしれませんが、結局シシーに対しては愛情以外にも彼の主人公同様「奉伺・名誉・自己犠牲」の態度を示していたのだと思います。
だからチャンドラーとシシーの晩年のお互い元気な頃は、精神的に充実していたと思う。
番組の中で「プレイバック」の中の有名な台詞
「I wasn't hard,I wouldn't be alive.If I couldn't ever gentle,I wouldn't deserve to be alive」を
「強くなければ生きてはいけない。優しく成れなけければ、生きていく資格は無い。」
といかにも直訳していたが、生島治郎の訳では
「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格が無い。」
と成っていた。わずかな単語の差であるが、受ける印象には大きな差があるなぁ。
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コメント
僕としては、2つの訳の前後を使って、
「強くなければ生きてはいけない。優しくなければ生きていく資格が無い。」とした方が好きかな、、、。
投稿: 安ど | 2009年4月23日 (木) 16:49
私は「アホでなければ生きて行けない。楽しくなければ生きてる甲斐が無い」なんて時々言ってます。(笑)
投稿: tatsuo1 | 2009年4月23日 (木) 16:56